朝日新聞7月6日(1)

政治への暴力、向き合うべき課題 安倍元首相銃撃から1年 識者に聞く:朝日新聞デジタル

井上達夫氏と河野有理氏のインタビュー。

どっちかというと政治がフェアに運営されていない状況をいう井上氏に説得された。たしかに、民主的な制度は運用も含めて初めて生きるもので、いまのような運用のされ方は、逆に多数を取った人たちの横暴を許す装置にしかならない。解散権についても、あたかも当然のように報道するマスコミにも大きな問題があるだろう。私は井上氏の説明を聞いて、確かにそのとおり、と思った。国会が決議するのはわかるが、内閣が自ら解散するのはよほどのことだろう。しかしそれが常態化している。選挙には当然税金も使われることも全く考慮されない。

一方の河野氏のインタビューはわかったようなわからないような、というような感じだ。確かに暴力について、タブーだ。例えばタブーの例として、昔からあり、「転び公妨」といいようなものはその典型だろうし、その現実に起きたハレーションは先日の山本太郎議員への懲罰動議だろう。実際にケガをした方には申し訳ないが、しかし、残念ながら国会の委員会での強硬決議はそのような暴力が充満する場であり、自民党もスポーツ系の方々などを盾としていたりしたと思う。そうした中にはいって”けがをした”といって騒ぐのはどうなんだろう。もちろんボクシングの選手の議員などが殴ったりすればそれは問題だろうが、、、(とこの基準もあいまいではない)。しかし、冷静に考えないといけないのは、国会の委員会の運営は与党(委員長)側にイニシアチブがあり、そこで採決が行われる場面に不満があるときに、その表しとしては、ある種の暴力的な表現を取らざるを得ないということだ。それには例えばボードを掲げるとかそういったことも含めてだ。言論の自由がもはや与えられていない状況を理解する必要があるだろう。それに対して多くは(私自身はテレビを見ないのでバラエティでどういう言い方をしているのか知らないが)ネットなどでは、”暴力はいけない”大合唱である。安倍氏へのやじの件もそういった基準が裁判にすら適用されるようだ。また、以前はJリーグで民族差別的なことを”レフリー”がいいたことに腹を立てた選手にすら”暴力はいけない”という意見が出たことがあったように記憶する。私はむしろ暴力が発生する場面というものがどういったことなのか、それを冷静に判断することで、むしろ暴力を振るわれる側への政治的なスタンス、振るう側へのシンパシーなどが生まれることが正しいのではないかと思う。日本でこういった問題を考えるときに大きな影響を与えたのは学園闘争というものだろう。また中国の文化大革命を思い出す人もいるのかもしれない。大学の自治の名のもとにきわめて”非民主的”なことが行われていたことがある。例えば早稲田大学などでの状況は樋田敦氏の著書にも詳しい。私が知る限り1980年代の後半にはまだ、同じようなことがあったようだ。そういったことへの嫌悪は当然だ。しかし、それに対決しようとした樋田氏たちの暴力も”悪い”というのは現状肯定でしかないように思える。物理的に例えば殴り合いをするなどをいうのではないが、”集会をする”などもある意味”暴力的”な意味を持つのであればそういったことまで暴力の名のもとに排除するのは問題だろう。香港の状況や新疆ウイグル自治区の問題を考えればわかることだ。河野氏の論がそのあたりまで明確に道筋が見えればどれだけ良かったろうかとも思う。結局は井上氏のいう真に意見が聞かれ議論される社会が不当な暴力を抑える安心な社会になるのだろう。