ナンバーにこのような見出しの記事があった。このことばは過去を振り返っての監督のことばなので筆者のことばではないが、しかし、それを書いたのは紛れもなく著者の沢井史氏である。
小生はこの方の書いた書籍などは読んだことはないが、今の文章としてこのようなことを書くことが許されるのかとおもった。しかし、実は今回30年を迎えるさまざまな言説が実はそう思われている人も多いのかと思うところに違和感があったので、小生のその違和感を象徴した言葉としていきついたところだ。
まず、地震自体は防ぐことはできない。そして被害を最小にする努力が必要であることも分かる。しかし、それでは被害を最小にすることについて関西のひとたちはどれだけ自覚的なのかと思う。例えば関西電力では原発は稼働再開があきらかに関東、東北より多い。また、学校でのヘルメットの装備なども進んでいるとは聞かない。
さらに大阪万博の開催について、地震発生時になにか、特別に考慮されているというわけでもないという報道もあった。
一方戦争は違う。それは国家やそれなりの経済規模で武器を持てるような組織が起こすものだ。今の武器はとても一般人では買えない。訓練もできない。
しかし日本では何か戦争も”自然に”起きてしまい、責任を追及することはなかったように思われる。そのようなことだけでなく、戦争を止めることは国民や市民の力で十分に可能なはずだ。逆に市民や国民が協力することで戦争は行われている、というのは特にロシアとウクライナの間の戦争を見ていれば明らかだ。
しかし、実際は日本では今、自衛のために武力を行使する戦争は必要と考えている人すらも多いようだ。
そのような中で地震の被害も戦争の被害も同一したような記事が書かれることに非常に違和感を感じるのだ。もし戦争で地震と同じような破壊が起こっても、その地域にみんなでよりそっていくような、そんな歌が歌われて、、、
杞憂ということであればいいのだが。