日刊スポーツ政界地獄耳(7月4日)

【政界地獄耳】火種を作り、高市政権の防衛力強化の理由出来上がった - 政界地獄耳 - 社会コラム : 日刊スポーツ

なるほどと思わされた。高市首相の発言は決して一時的なものではなく、火種を作ったという実に計画的な作戦だったということか。

確かに危機をあおって防衛費増額。これはうまいとしかいいようがない。

いろいろな支出、基地などの課題を、危機をあおることで見事に国民が持ち上げてくれる。なんだかだがこれが今の日本なのだろう。

本来ならマスコミがきちんとその危機とやらを解明してくれればいいのだが、そんなことは誰もしない。特にNHK。

例えば防衛費にしても、上げるからには税収を増やすかほかの予算を削るかの2択である。もちろん税収のうち、増額になっているものもあるわけだけど、本来それは次に積み立てるとか、例えば今回も石油備蓄を放出して購入する際にはお金が必要だったりするし、ガソリン代の補助にも相当お金を使っているので、優先的にそういったところに回すべきなのではないだろうか?

だれもそんなことはいわず、税収が増えていればそれを政策に回せばいいというばかり。先ほど書いたような使い方は後ろ向きでほめてくれる人はいないからねえ。ただ、そういう人たちが未来へのなんとかとかいうのもなんともだ。こういった危機に備えてためたものをはきだしたら、戻しておくのが危機管理なのではないでしょうか?結局次に何かあった時には吐き出すものもなくなってしまったら困りますよね。

そうなったときは本当に日本が当事者になって戦争でもしないと窮地を脱せなくなるという事態になりかねないと感じる今日この頃です。

またまた深井智朗(つづき)

松井健人氏による深井智朗氏に関する論文は指揮者の間では非常に好評であるようだ。

しかし、大きなポイントとしていいたいのは、まずもとの本は学術書とは言えないだろうということだ。査読論文などを集めて本にしたのならわかるがそうではない。したがってこれをあとのひとが自分でチェックなしに使うことは不可能だろう。何が”論”であるかもよくわからない本だからだ。岩波書店もそのような売り方はしてなかったと思うのだが。また当然図書のエッセイも同じだ。小生も図書は毎月入手して読んでいるが、あれを論文に使う学者はこれまで見たことがないのだが、、、松井氏は図書のほかの文章はそのようなものとして読まれているのだろうか?

また、小生は深井氏の本業が牧師であることにも着目したい。

確かに大学で教えている学者ではあるのだが、基本的には彼は牧師である。そういった人たちの中で引用がそれほど厳密ではないのは、前に書いたとおりである。もちろん学位取得論文などでこのようなことがあるのであれば、大きな問題でそれは指摘されるべきだろう。不正もまずい。しかし、深井氏はそのような目的であの本を書いたわけではない。すでにそのような、学会で認められようとか、そういったために彼は研究は行っていないひとなのである。深井氏にとっての問題は、あまりにも売れすぎて彼が想像の中で書いたことが、影響を持ちすぎたことなのだろう。

一方同じような時代について、松井氏のようなガチ研究者のようなひともいて、そこには研究というものへの大きな断絶があることを認められないということではないのだろうか。要は牧師の人たちは、研究といってもそれは何かしらの伝道者としての学びであって、そこから何か出てくるものがあるのだろう。そして、それはそもそも”学問的な発展”などは目的としていないものなのではないだろうか?実は小生はあるところで深井氏の話の中でマックス・ウェーバーについて触れていた講演を聞いたのだが、おや?っと思うところがあった。まだカールれーふらー事件が明るみに出る前であったが、確かにそういところがある人だということは感じていたのだが、まあ話としておもしろければいいじゃないかくらいに思っていた。

また、カルバンの綱要の初版の翻訳をさせたことについて、いったい何を言いたいのかは謎である。これまた翻訳がひどいものであることなど世の中にはいくらでもあり、そのようなひとでも何冊も訳していたりするのはよくあることではないのか?松井氏が専門とする分野でそのようなことがないのであればそれは幸せなことだが。その代わり、おそらくほとんど小生が読む限り、引用する場合は原著に皆さんあたっているとおもう。また私訳を作っていると思うのだが。まさにキリスト教綱要などはそのようなことなしにはテキストとして使うことが難しいのではないだろうか?

翻訳書をだれが訳して出版するかは私的な企業であれば完全に経営の自由に含まれると思う。もし、深井氏を起用することで、翻訳の質に疑問が生じたり、不愉快に思う人を想定すると売れ行きが悪くなることがわかればおそらくは起用しないだろう。それだけの話だ。松井氏は一体商業的な出版社について何を思っているのだろう。もちろん例えば翻訳といいつつ全体の50%はカットしてるとか、適当な訳だとかそういうことであればそれを指摘することはいいと思うのだが、そうではなく、訳者についてあれこれいうのは繰り返すが私企業に対しての経営の自由を侵す行為だ。同じくほんのひろばの取り下げももし松井氏が行ったのだとしたら、これもひどい話で、キリスト教出版社はタダですら経営が苦しいところをそのようなクレームが寄せられるというのではやってられないだろう。もしかすると松井氏や小林氏は出版という行為をすくなくとも商業出版という行為をなにか勘違いしていると思う。商業出版は私企業の自由な行為であるべきであって、もちろんヘイト本は禁止されてもおかしくはないと思うが、今回のような深井氏の薬業まであーだこーだいうのは行きすぎだと感じる。

まあXなどみているとこういった感想は少ないことがわかったので、学者でない自分とは違う観点などだとわかったが、逆に私企業の営業に関わることまであれこれ口を出されるのは学者の横暴という感じだ。

またまた思い出したように深井智朗氏

X(旧ツイッター)にまたまた松井健人氏が深井氏について書いているというのが流れてきて読んでみた。

一読若い研究者の仕事としてあまりにも無益と思われた。

また、特に「男同士の絆? カール・レーフラー捏造事件から『キリスト教
綱要 初版』(深井智朗訳)まで」の方にはなんといか読んでいて、若干気持ち悪さすら感じた。

2編最近の著作が松井氏にはあるようだが、こちらについては、講談社から出版された「キリスト教綱要 初版」についてあれこれと書いていて、編集者までを”共犯者”のように見立てたところがちょっと違っている。それがタイトルの”男同士の絆”というものである。しかし、どこが男同士ということでこのような出版が行われたという証明なのだろうか?小生は”男同士”だから、ということは読み取れなかったのだが、、、互氏の回答のどこに”男同士”を読み取ったのかタイトルにするなら書いてほしいものだ。

と書いてきて、なぜかは読み取れるところもある。いまではよはく舎という出版社もやっている小林えみ氏についての記述がありこのひとが編集をしていた雑誌に深井氏に寄稿をもとめたことを深く憂慮しているという記述がある。また、「ほんのひろば:というフリーペーパーに深井氏が寄稿したときも謝罪を出しているのは女性の編集者なのか?これも寄稿を依頼したのはどうも書評対象の本の出版社のひととするとfacebookでみるところ男性であるので、”男同士の絆”と映ったのかもしれない。

しかし小生が読む限り、小林氏の文章にもちょっと言いようのない不快感を感じた。それはある雑誌を編集するということが、その雑誌に寄稿する人たちへの全能感を逆に言うと持たないといけないと思っているのではないかと思われたからだ。もちろんそんなことはない。編集者とは、あるページ数の原稿を依頼し、それを”編む”ことで一冊の雑誌にする。もちろん出版に当たってはそれなりの責任は生じるが、それは近代では分散されているものだろう。例えば深井氏の書物を出した岩波書店はこの本の回収で多大な被害を被ったとはいえ、学術書の場合、校閲でわかる範囲は限定的なものであるという自戒もあるだろう。松井氏が行ったように、学術書について、参照する文献を所蔵する図書館などに問い合わせまで行うのは明らかに校閲者の仕事を超えていると思われる。

松井氏のようなひとにとって、編集者として反省すべきは、例えば矢野某のようなセクハラを起こした著作者を起用することなのか(人とつぃての問題)または著作の中(論文じゃないですよ)で適当な参照をするひとなのか?

これが学術論文で査読を行うのであれば、そのような手続きは厳密だろうし、同業者のピアレビューはそれだけ信頼できるものでなければならない。しかし、深井氏の著作は別に学術論文として書かれたものではないし、これで深井氏が学位をえたわけでもない。松井氏が今後深井氏の博士論文などにあたってこれが不正であることを証明すれば大きな功績と思うのだが、なぜ最近の書き飛ばしたような本ばかりを相手にするのだろうか?ぜひとも学位をとった論文や査読付きの論文についてもっと調べてほしい。

しかしそうはならないのが松井氏だおそらく小林氏を援用していることも考え合わせると松井氏のいいたいのは”編集”、”出版”という著者と別の存在がどういった責任を取るべきなのか、ということなのだろう。すくなくとも松井氏は編集者についてはかなりの責任を負わせたいようだ。しかし、編集者は校閲者ではない。そうなるとどこまでなのだろう。そういったところをもっと書くとよかったのにと思うのだが、、、

ちなみに松井氏がどちらかというとおそらくは深井氏に対して懸念を示したことで肯定的に書いていると思われるM氏について、昔小生は坂口ふみ氏の『個の誕生』について、結構適当と感じた書評を書いているのを読まされたことがある。坂口氏のこのような書物はまさにエッセイという形式で学術的な引用とかなり違うのだが、松井氏などからするとこういった著作はどう映るのだろう。ちなみに岩波ではもしかすると同一人物が深井氏も担当していたのかもしれないと思っているのだが。

最近校閲者に不満をもった著者が校閲をオープンにした。逆にこういった著作者は松井氏にとってどうなのだろう。そういったシステム的なところまで考慮する。しかも、学術論文と学術書、学者が書く一般向け書物でどうかなど比較してくれると今回の問題はもっと広がりが出たのではないだろうか。

さらにいえば、例えば小生は松井氏がたまたま挙げているある神学者のエッセイを読んでいて(のちに本にもなった)おやっと思って元の本を読むと、思った通り重要な一語が抜かれていた。おそらく著者にとってはそのあとをつなげていくのに明らかにないほうがいい一語であることはわかったが、しかし小生はその著者のいいたいことを曲げていると感じた。それでも通るのが神学の世界だとすると、まあ深井氏のような人が出てもおかしくはないなとも思ったものだ。

ということで、ほかの学会に所属する学者のことをあれこれいってもしょうがないのでは。特に神学者といっても牧師が本業の人たちは説教をするつもりで論文を書くので学者とは違うのではないだろうか。

朝日新聞日曜コラム(6月28日)吉田純子氏

(日曜に想う)相手の声を聞く、咲き誇る前に 朝日新聞社コラムニスト・吉田純子:朝日新聞

普段は朝日に対してあまり感心してないが、これは素晴らしい記事だった。音楽関係の記事もよいのだが、これは本当に素晴らしいコラムだ。

沖縄でのあいさつ時の抗議の声が聞こえなかったという首相、それはそのとき聞こえなかったのだけではなく、沖縄県知事と話し合おうとしない姿勢にもみる、”気に入らないことは聞かない”という姿勢だ。それを、昭和100年のときや、マルコス大統領来日のときの”歌う姿”が同席者の困惑を招いたことと結んで、”自らが歌うと人がどう思ってようと関係ない”という姿をみる。そこでマルタ・アルゲリッチを登場させるのが吉田氏のすごいところだ。当然音楽家は人の音を聞いて演奏する。それができるかどうかが音楽家のレベルを分けるわけだ。それは演奏のことだけでなく、おそらくは音楽を作るということも、その人が聞いたこと、見たこと、読んだことなどを昇華させて曲にするのではないだろうか?そして、それは演奏者だけでなく受け取る人へのメッセージである。結局のところ、それは首相の沖縄でのあいさつへの批評である、沖縄県の中で”国を守るために兵士が死んだ”というとき、そこには日本兵によって殺された沖縄県民の声は聞こえていなかった。もしくは聞く気がないとしか思われない。そういう挨拶であったということだろう。それに比べて中学生のことばは相手にとどけ、受け取ってほしいという気持ちがあのような形になっていたと感じた。

吉田氏は、そのようなりかたを”幼児性”といっているが、その鋭さに驚く。首相はドラマーであることを売りにしているが、ロックのドラマーでもほかの人の演奏を聞かないものではないだろう。小生の理解するところではドラムは歌やギターなどを支える役割だとおもうのですが、、、どうだったのだろう。ぜひ神戸大学時代に一緒に演奏していた人たちのコメントを朝日は集めてほしいものだ。

経歴偽装についてテレビ局やBPOに問い合わせてみては

いろいろなところで首相の米国時代の経歴はもってるのではないかという指摘がある。

小生はどちらなのかは直接的にはわからないが、まあニューヨークタイムズの記事なども出てきているので、どっちかというとそちらが真実(日本での昔のことなど忖度なしで書いているのだろうから)かなあと感じている。

一番簡単なのは、強く疑ったり、録画を見ている市民がBPOに当時彼女を起用して、そのような経歴をキャプションとしてつけたり、紹介したり、しゃべらせたりしていたことが真実だったのかを改めて確認するようもとめればいいのではないでしょうか。

特に選挙に最初に出た時などはそういった肩書でテレビのキャスターなどもつとめていたことは相当に大きな影響があったわけで、”真実であることをどの程度確認したのか”、”今現在も真実とするのか””虚偽であった場合その訂正をしてほしい”などいろいろな切り口はあるだろう。

また、出版社にも真実性をどこまで確認したのか改めて問い合わせてみてはどうでしょうか。もし虚偽であった場合は訂正広告をだすとか、そういったことにつながるでしょう。

それは今では民間の会社として、必要なことであることは現代では当然のことです。

まあ昔は特に海外の経歴は盛り放題であったとしても、単に大学の語学留学を学位をとったというレベルは最近減っているわけですけど、学位ではなくてもなんだかやっていることをもってそれをテレビでがんがんとしゃべったり本を書いたりしていたらそれは問題だろうと。

おそらく国会で盛り上げるよりそのほうがよっぽど現実的な解決策だし、もやもや感もなくなるのではないかと思うのですがどうでしょう。

日刊スポーツ(国旗毀損罪)

国民・玉木雄一郎代表がダメ出し連発 自民「国旗損壊罪」内容に「過度な制限」「反対より心配」 - 政治 : 日刊スポーツ

別に玉木氏を支持するわけではないが、日刊スポーツの記事。

国旗毀損罪についてはあれこれでているが、いささか杞憂の感じもあるが、これが決まるとおそらく以前の町内会で国旗を揚げよう運動が復活するのではないかということも懸念している。なぜか日の丸が国旗と決まった後はあまり熱心ではなくなったように思うが、その前は町内会単位で国旗を買わせて国民の祝日にあげるという運動のようなものがあったと記憶している。

それが復活して例えば国民の祝日は当然として、国葬があればその時もとかあげさせるようになると。それでもってそれに反抗する人は、国旗に対しての敬意がないとか、あげているひとからみて、あげないことが国旗の敬意にかけた不愉快な扱いに感じる、というともう現在の国旗毀損罪の範囲に入ってくるのではないか。要はそのような反抗的な人をあぶりだすための法律なのではないか、というのが思うところだ。

何しろここでいっている国旗が実際の旗というものなのか、それとも絵なども含まれるのかもよくわからない。絵はわからないとして、オブジェはどうなのかもよくわからない。まさに表現ならば芸術作品であるオブジェとして扱われていた場合どうなのだろう?芸術作品は当然政治的な主張も含むわけで、どうなんだかよくわからないことはやはり問題、とにかく、これまで表現の自由は言われているが、昔の国旗掲揚運動を思い出すと、あれが復活して、それをあげないことでの何かがあるのではないか。まあ直接的に捕まえなくても町内会などで説得してあげない人を通告するとかですねえ。警察も見て回るとかなんだかそんな世の中になりそうな。もちろん昔の結構町内会で回覧回したりして国旗を買わせてたりした時代でもさすがに警察まではのりだしてなかったとおもうけど、どうだったのだろう。それ自体わからないけど。ましてや今は何が起こるかわからないなあという気がします。

日刊スポーツ政界地獄耳(6月20日)

【政界地獄耳】金づるとしての価値も低下した日本 これからの世界をどうするかの議論に入れず - 政界地獄耳 - 社会コラム : 日刊スポーツ

G7は確かに日本は経済力あっての日本だったのだろう。

ある意味当たり前のことなのだが、それを忘れているところに今の日本の問題点があると思う。米国にしろ、はっきり言って日本は米国に安くものを供給する、またはお金を供給する、そこで貢献してくれればいいので、アジアの地域の防衛力をどうこうというのはあまり現実的な問題とも思えない。歴史を見れば、当然石油がある中東はアジアとは比べ物にならないくらい米国の比重は思い。

一方でレアアースの問題は、ヨーロッパではかつての宗主国であったアフリカの国と中国がキーになっているわけで、みんなそこは中国が頑張っていることは認めているように見える。そこで備蓄といってどこまで響いたか。まあ日本のために備蓄場所を作るの?って感じか?ようは中国から輸入したレアアースを日本にほしいからヨーロッパでかったものを分けてほしいということだろう。なんだかだ。みんな背景はわかってしまっていることでどうもだなあ。

ということで、対中国云々も中国はG7全体ではなく、日本だけをターゲットにコメントしたあたり、もう世界中から日本という国がそうみられている、という感じだ。

この先米国に見捨てられるといろいろと話は出てきて、終わるということか。

まあサナエトークンはさすがにお金が絡んでいるので損失をうけたひとたちが黙ってはいられないだろう。中小動画は消せたがサナエトークンはお金の問題なのでこちらはごまかせない、となると必然的に中傷動画もあいまいなまま終わることはなさそうだ。

しかし、こちらは逆になんで選挙中にもっとメディアが取り上げなかったのかという疑問もある。NHKでも安住氏のパンの動画のことなどやっていたと思うが、その時に、本当に自民の支持者による自然な拡散なのか、それとも、選挙区外からの”農場”を使った不自然な拡散だったのかくらいはきちんと報道すべきだし、それは今でもできるはずなのにしないと。特にNHKの問題は大きいと思う。逆にそこを抑えているがための余裕だとすると、今後米国などが本腰を入れてきたときにNHKも耐えられるかですかね。