近藤康太朗氏のトンでも記事

受けたことの繰り返しでいいのか 「トンデモ企画」叩き付ける初心を:朝日新聞デジタル

いつも思うのですが、この方こそこの記事の中の”フォロワーがたくさんいればいいだろう”というタイプの記者なのでは。なんだか自分が見えてないひとで、おそらくはもともと新聞記者には向いてないのでしょう。

新聞記者にわれわれが求めているのは、受ける記事ではなく、事実を伝える。しかも、できるだけ客観的に伝えることです。人間が書く以上もちろんある立場があるわけで、それが読めばわかることが重要なのだと思われます。例えば、驚いたのは、トヨタ自動車の社長交代の記事で、普通は交替した後の社長の写真が大きく出て、退任する社長の顔写真など乗らないことも多いと思っていましたが、トヨタ自動車の記事は違いました。もちろん創業者一族の特別な事情はあるのでしょうが、記者はそこまで忖度して記事を書かれると、ちょっと信頼性が薄れます。

で近藤氏に戻ると、正しいことが云々とも書いてあります。もちろん学術論文ではないのでそのような正しさとは違うところがあるのはわかります。しかしジャーナリストとしての正しさはないと報道への信頼ができなくなります。(なので私は新聞記者などが、定年後大学でジャーナリズム自体ではなく、政治などを教えることは問題があると思ってます)そして、近藤氏が読者が選択して読む媒体に彼の思想のもとに何を書こうが勝手ですが、朝日新聞に書く文章は朝日新聞の読者に届けられるもので、読者はあくまでも朝日新聞として読んでいます。逆に言うと近藤氏は朝日新聞の記者としての特権があるので、あるスペースを与えられて記事を書き、それは読者はいやおうなしの読まされるわけです。そのことの特権性に気が付いたら、ラッパーの人たちのように、本当に聞き手と向かい合っているひととは全く違う立場、もしかするとその特権は学級委員長的なもの、といえるかもしれないことに自覚的であってほしいものです。ってもう定年にもなろうかという方に言うのも失礼な話ですが。ちょうどBeに山田太一さんが、大学時代について書いていて、同級生でのちに朝日の記者になったひとについて、当時はトップクラスでないと入れなかったと書いていましたので、そのようなことで近藤氏も特権意識があるのかもしれませんが。