朝日新聞の記事(近藤氏:2022年9月17日朝刊)

朝日新聞のオピニオン欄の下に多事総論というコラムがある。漢字が違うがめんどうなので

科学で説明できない不思議体験 「なんですか、そんなこと!」:朝日新聞デジタル

何人かのシニアの記者あがりで、あまり役職についていないひまそうな人たちのコラムなので緊張感を感じない感じの場所だ。

とくにやめたほうがいいんじゃいかくらいの記事を連発する近藤氏だが今週もひどかった。

自らは近所の不思議な治療で耳が治ったという。そういったことは起こりうることなのにそれを宗教としてしまうのは科学主義だというわけだが、いったい何をいいたいのかさっぱりだった。

まあ自らを音楽評論家といっているひとに何をいっても無駄だが、しかし、朝日新聞のそれなりのスペースを使って書くわけだから何かを言いたかったのだろう。まさか自分の耳は近所のお医者さんの不思議な理療で治ったけど、それが宗教なんて思ってないぞ、という自慢か?

例えばキリスト教の聖書でも病気の治癒は語られる。大昔からおそらく病気の治癒や天候といった人間の物理的な力ではどうにもならないことを人は祈って、それが成就することでおそらく生活してきているし、それを体系的に支えてきたのは宗教の役割なのだろう。だから、結果が先にあるわけではなく、おそらく旧統一協会に多額の献金をしているひとも、多額の献金をするという宗教的な行為(信仰の行為と自分たちは思っているだろう)をしているので、いろいろなことが起こるという文脈でとらえているのではないだろうか。聖書のひとたちも必ずしも幸せな人生ではなく、むしろ苦難にあって信仰を捨てないような人たちが記録されている。それが宗教というもので、何か治ったkら信じているというようなものでもない。

ということで、まあ繰り返すが音楽評論家を自認する貴社が書く宗教に関するコラムについてまじめに腹を立てるのもどうかと思うがただ、朝日の購読料はこういうひとを養うためにもつかわれている(もしかして購読料はアサヒ本体じゃなくて専売所のため?)のかと思うとちょっと腹がたったので。

関係ないけどクラシックでは宗教と音楽は密接ですが、音楽を学べばいい曲が書けるわけではない、というのはクラシックだけじゃなくてポピュラーもいっしょじゃないですかね。それを”宗教”ととらえてきた人たちもたくさんいるとおもうのですが。まあ近藤氏からしたらバッハ見ないなひとは”間違えていた”のでしょうか、、、

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読み間違えがあったようなので追記します。

近藤氏がいいたいのは、世の中で宗教的な”奇跡”といっているのは別に奇跡でもなく、そういことは起こるので、そういうことを見せられて宗教とか超能力というのは間違えているということなんですね。しかし、およそ信仰を持つ人が奇跡を見たからとかそう言う理由で持つようになるんでしょうかね。まあこればっかりはいろいろなひとがいるからわかりませんが、新聞などを読む限りでは、例えば家族が重病になったのはあなたの信心がたりないからだ、とか、それで死ぬと、こんどはほかのひとにも同じ不幸が起こる、などといって勧誘しているのでは。別に治ったからではなくて、治らないとそれは信心の不足みたいにいわれてお金を取られるというのが常のようですが、近藤氏の周りではそうではなくて、むしろ治って信心をするひとがおおいのでしょうかね。

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