信教の自由があるからの信仰?

斎藤小百合氏の朝日新聞の記事からいくつかのことを考えた。

まず信教の自由があるからひとは信仰を持つのかということだ

これはNOだ。

日本のキリスト教の歴史をみても、キリスト教が禁止された江戸時代さえも信仰をもつひとは絶えなかった。世界の中でもそうだろう。

しかし、ある人たちは、今の日本国憲法の信仰の自由が大切だという。

確かに国から弾圧されるよりは、自由を認められていたほうがいいのだろう。ましてや、ミッションスクールの関係者や牧師などは当然だ。

しかし一般の信者にとって、憲法で信条の自由があるからキリスト教を信仰してます、というひとはおそらく皆無だろう。信仰とは神様を信じることで決してほかのことを信じているのではなく、神様が自らをとらえてくださっているというものだろう。

そうなると、なぜ日本国憲法がそこに登場するのか。

また、明らかなのはあるイデオロギーを信奉するひとには宗教などはあまりもってほしくないということで、現在のキリスト教が強く弾圧されている国を考えればわかりそうなものだ。日本の前衛政党は、自分たちが政権をとっても宗教の弾圧はしないといいつつなんだかな感じだ。実際に世界の中で宗教が弾圧れれているのは前衛政党が信じるイデオロギーによって作られた政党が支配する国だ。もちろん専制君主が支配する国では同じようなものだから、前衛政党イデオロギーだけではないが、とにかく、国民をある方向に向かわせようという支配者がいれば宗教は邪魔になるということだけだ。わたしは信教の自由を研究する(おそらくは大切にする)といいつつも、憲法の護持をいうひとというのは信用できないなあと思っている。ましてはそれを前衛政党といっしょにいうひとはなおさらだ。結局は敵の敵は味方みたいな発想なんだろうけど、前衛政党が信教の自由を守ってくれるなどと思うのは歴史に目をつぶることだと思う。まあ斎藤氏が何をいっているのかつぶさに見ているわけでもないので彼女に向けているのではなく、彼女のいっていることをもとによく見る言説について考えたことである。