朝日新聞近藤康太郎氏

(多事奏論)業の深さ 生きてんだから、目をそらさずに 近藤康太郎:朝日新聞デジタル

こんな記事を読みました。

相変わらずよくこんなこといてて朝日新聞が載せてくれて、何百万のひとの目に触れて、それで千万越えの収入も得られるのですからいいですなあ。朝日の記者はって感じですね。この方は1963年生まれと書いていますからどう考えてももう61歳なわけで、それでも編集委員というありがたい肩書で長崎にいられるわけですから、まあ朝日新聞、なんだかんだいっても勝ち組ですな。

ということで僻目もあっての感想ですが、一見このひとは殺される側に寄り添うように見せて、殺生は豪だという。なんだかわけわからないですな。この人の論理を敷衍すれば某国が隣国を”自分たちが生きるため”に攻撃するのも正当であるということだろう。小生はもし近藤氏が文学者であるならこのようなことを書いていてもそこまでは言わないと思う。しかし、まぎれもなく新聞記者としての近藤氏が朝日新聞という日本を代表する新聞に書いていることなので、そのような危険な思想を披露されることに対して危機感を感じた。

まあ朝日新聞終戦前は大東亜共栄圏なんて言うものを宣伝してた新聞だし、今も政府の思想を宣伝するという役割も感じているようなので、こういうひとは、戦争がはじまると、アジアの隣人に日本の優れた政治を広げるのはお互いの繁栄のためだとか書いちゃう口なんだろうな。

ということで気が付いたのは、頭のいい人は過度な理論づけをして、その中でがんじがらめになってしまうことがあるということです。別にこのひとも猟をやったり田んぼをつくるのにそこまで考えなくてもいいのにと。いみじくも彼も書いているように、いまどき田んぼは生活のために作るものでもなくなっているわけですから、実際かれは朝日新聞の給与がなければとてもそんなことやってられないんでしょうからね。

何事もほどほどにやっているのがいいんじゃないでしょうか、、、

ちなみに小生は石垣りんさんの立っている場所は全然近藤氏とは違って一貫していると思います。もちろん彼女は日本を代表する大銀行の行員だったわけですけど、管理する側に立ったことはないし、その立場というのを詩人としても一貫させていたと思ってます。したがって、朝日新聞編集委員という特権的な立場で新聞にこのような文章を書いている近藤氏とは全く違うので、あのような特権的な立場から自分が殺す側だといっている文章で引用されるのはどうなんだろうと感じました。