座り込みについて(2)

沖縄の座り込みについての話の中で、若い人が

・座り込みやハンストは強い抗議に使うべきで10分やって続けているというようなやりかたは違うんじゃないか

といっているらしい。(というかそういう意見に対立した方々にはもっとなにかいったらしい)

確かにハンストは10分じゃあハンストとはいわないでしょうね。何日になるとハンストになるのかはなかなか難しいところでしょう。でもこの手の人たちは水を飲んでたらハンストじゃないとか医者がついてたらハンストじゃないとか言い出しそうな気もします。なぜなら、おそらくは世の中には外と連絡も取れず支援者もなくハンストするひともいるからです。

そういういみでは、ハンストというのは当事者が相手に対してより強く何かを訴える行為のような気がします。

一方座り込みはもちろん相手に対しての抗議の意味を示す活動ですが、結局は排除されれば終わりだし、不法侵入はできないので、かなり外部を意識した活動といえると思います。なので、取材にいったひとも、もし誰もいなかったら、自分も意見が一緒であれば座ればいいし、反対や、単に見に行っただけなら帰ってくればよかったんじゃないでしょうか。そして、座り込みがどうのという話ではなく、なんで反対しているのかを聞いたほうがずっとみんなのためになったと思います。

まあもともと取材にいったひとについてはいいんですが、今度は座り込みはもっと力を入れてやるもので、時間が区切られていたりするのはカジュアル化だとか、対話が第一だのようなことをいっているのを見ると、なんだかなあと思います。

しかし視点を変えるとこういうことをおっしゃる方がいることは事実なのでなぜなんだろうと考えることは大切だと思います。

きっとある種の活動に巻き込むことを第一に考えているとしか思えない人に接してそういった方々への反感もあるのではないでしょうか。ただ、例えば前衛政党(という言い方を今でもするのかな?)があって、座り込みに集まった人に機関紙の購入を進めてるとか、某団体がやはりカンパや機関誌の購読を求めているとかそういったことが行われているのであればそれをぜひとも報道してほしいですね。

なんだか若い人の中には運動しているひと=あつまったひとからお金を集めて、遊んでいる幹部がいる

というまさにいまの連合のようなことがどの団体でもあるように思ってるんじゃないかなあとも思います。話は外れますがそういった意味で、今の連合会長は反自民党な人たちへの若者の反感に大きく役立っていると思う存在ですね。

ところでカジュアルな反対運動はいけないんでしょうか。

例えば米国のバスで黒人が白人用の席に座ったことも、最初はひとりの行為だったかもしれません。そこで排除されればこういういいかただとカジュアルとみなされるようなことだったかもしれません。それこそそこに座り込んで主張をするなどということはせず、逮捕されて罰金刑を受けたのですから。しかし、それが共感されれば大きなうねりになっていく。最初は小さな行為からこういった社会的な問題への抗議は始まっていくんじゃないでしょうか。わたしはそういうことで、いくら小さな活動でも抗議したい人がその意思を示すことはいつか大きな流れを生むかもしれない、ということでそのような人たちの活動に対してどうこういうつもりはありません。もちろん反対するひとがいるのは当然です。基地の移設に賛成の方は、なぜ今沖縄では選挙ではそこはあいまいにしておいて、選挙が終わると、選挙中もある程度みんな分かっていた移設反対を表明するようなことになっているのか。そこに沖縄のつらさということでは移設賛成の人も抱えていることを理解しないといけないんじゃないでしょうか。沖縄が米国から返還されて(という言い方はあまりされず、本土復帰というあたかも沖縄が自律的に復帰したような言い方もレトリックですね)50年ですが、特に不思議なのは日本を愛すると公言する方々は、そのような基地を抱えていることのつらさを訴える人たちに対して同情を寄せているとはいいがたいような気がすることです。そういう人たちにとっての日本はどこなんでしょうか。大阪や京都の関西圏くらいなんでしょうか、または首都圏か。おそらく原発が設置されているようなところはちょっとそういったひとたちの日本に入っているのかどうか不明な気がしますので、相当狭いんじゃないかなあと思うんですけどどうなんでしょう。