朝日新聞12月16日佐伯啓思氏の論考をよんで

進むべき道が見えなくなった 佐伯啓思さんが考える日本の現在地:朝日新聞デジタル

いきなり山本七平氏が「日本人とユダヤ人」の著者と書いてあっておっとおもったりしましたが、まあそれはもう当たり前の知識なんでしょうかね。

ということで、内容ですが、かっこをつけて「神」と書かれていますが、たしかに西洋の神は定義されてその信仰は告白されて初めてそのひとの神ということが公にも認められるという仕組みであります。しかし、日本の明治、大正、昭和天皇はそういった神学的な定義はなく、ただ、万世一系とか天皇の赤子とかそういった言い方で国民との関係を”信じて”いたのでしょう。ちなみにそのツールの中には”教育勅語”もあったことで、戦後これは廃止されたと思ってます。

佐伯氏は戦後はマッカーサーが神になったというわけですが、そんなことは誰も”告白”していないわけですので、佐伯氏がいうのは、逆にみんなが”告白”しなくても、雰囲気で”神”が生まれる、という日本の文化なんでしょうか。

日本でもある人たちは、イデオロギーを”信じ”それに殉じた人もいました。

また、宗教を信じてそれに殉じた人もいるわけです。

別のことを考えてみると政党というのも通常は綱領を明らかにして、それを中心に集まった人たちで構成されると思います。しかし、今の多くの政党はおそらくはだれがみても正しいようなことがあって、ちょっとだけ味付けのように違いが書かれるというものかと思ってます。

もちろん共産党などは違うわけですが。

そのような綱領によって(そもそも綱領の役割が、構成員にとってどうなのかもなぞですが)結ばれた人たちによらないけど投票活動が行われて、議会政治が行われるところに日本の難しさがあるように感じます。

結局は投票行動が何によっているのかわからないということじゃないかなと。

これは別に政治的な投票だけではなく、よく言われるように、お客に招かれて飲み物を聞かれたときに、ある国では”自分はこれを飲みたい”と仮にないことが分かってもいうということがマナーだということを聞いたことがあります。もしかすると、スポーツなのでもそんなことはあるかもしれません。

日本という国では往々にして、自分が”これだ”ということを主張するより、周りの雰囲気に合わせることがよいことだと。そして、それがSNSやテレビジョン番組などによってものすごく強化されているように思われます。

例えば宗教者でよく野球のことをSNSに投稿するひとがいます。そのひとのなかでは野球に興味をもたないひとは変な人なんでしょう。宗教者でもそうだという国だということでしょう。