古いプレイエルピアノの記事に思う

新聞である中学校で開校時に地元の篤志家が寄付したプレイエル社の1924年製のグランドピアノ(音楽室の建造資金も寄付したそうだ)が1995年ごろに校舎を改築した際に放置され、27年たって修理するというニュースがでていた。なんと生徒が分解したりして直そうということらしい。

なんだかな気がしました。

直前にこのような新聞記事がでていて、似ているということで押し込んだ人がいたのかもしれないと思いました。

空襲の火、教員6人が守った伝説のピアノ 100年の時が奏でる音色:朝日新聞デジタル

しかし、こちらは足りなめながらもきちんと市の教育委員会が予算をつけて修復するという事業で、話が全然違います。

比較して中学生が自分たちで直した、ということに物語を感じるひともいるのかもしれませんが、とんでもないはなしです。また、調律師はほとんどボランティアではないかと思われるような手伝わされ方をしているように記事からは感じました。なんだかこの記事からは校長をはじめとする学校関係者の音楽への敬意も感じられませんでしたし、それを作った人やメンテナンスする人への敬意も感じられません。調律のかたがどういう方かはわかりませんが、学校のピアノはヤマハなどだとすると、プレイエルの調律ができる人なのかも疑問です。もしピアノの調律は日本製も海外も同じくらいの漢学であるとするなら、輸入ピアノの調律を学ぶために、海外にいったりすることなどいらないんでしょうかね。

わたしはこの町のひとたちは、ぜひとも市の資産をこのような雑な管理をしていた過去の校長の責任をちゃんと裁判で問うべきではないかとすら感じました。なぜそうならないのでしょうか?公立中学校の資産は市民のみんなの資産なはずで、当然学校にあるものは学校で責任をもって管理するはずだと思うのですが。市民の過去の出身者への敬意もそんなもんなのかなあと思いました。

有名なピアニストに弾いてもらうことになっているそうですが、これまた今度はピアニストに対する敬意を感じない話です。音楽を職業としているひとにとって人前での演奏はやはりあるレベルでやらないといけないものです。どんなピアノでもいいわけはないと思いますが。

こういうはなしを美談として報じるマスコミもおそらく音楽(製作者、調律師、演奏家全部)への敬意も、また、地元出身で学校のために多額の寄付をしたひとの思いも全く通じなかったのだろうなあと思います。そんなことを記事を読んで非常に悲しい思いです。