苅部氏の小林秀雄本の中の高橋悠治氏についての記載をみて、突然思い出したのが茂木健一郎氏と高橋悠治氏の有名な対談だ。このときも確か小林秀雄の話題が出て雲行きが怪しくなっていって土砂降りだったかと。
逆に言うと脳科学者を標榜する茂木氏、政治学者の苅部氏と同年代の知識人が小林秀雄について一種取り込まれたような感じになるのはなぜだろう、という気もする。
この年代は70年ころはまだ7歳くらいで微妙な年代。もちろん両氏のような天才たちと自分は違うが、例えばそのころ中学生であった世代と比べると受け止めは違うだろう。
ほんの6-7歳程度の差ではあるけど1955年うまれくらいの人たちと65年くらいのうまれひとでは小林秀雄に対しての印象は違うのかもしれない。そういえば小林秀雄の本居宣長が出版されたときに、某有名進学校の生徒が万引きしたことがニュースになったような気がする。へーって感じだったが、1977年に12歳くらいだったとすると、そういうあこがれがあるのだろうか。
とにかくも、茂木氏は高橋氏にいわれて、確か作曲家や演奏者は特権的なのか、という問いかけをして、そんなわけはないだろう、というようなこともいわれていたような。
Youtubeを見返すのもちょっと面倒なので完全に記憶に頼ってますが。おそらくは、音楽家ら楽しさを感じたり悲しさを感じたりすることは当然ありうるけど、それをもったいつけて語ろうといスタンスに対しての強烈な批判があったように感じてます。例えば高橋氏が演奏する曲でもバッハはいいけど現代曲で自分が作曲したような曲は聞きたくない、という観客のことも書かれたことがあったと思いますが、まあそういうことはあるということは彼はわかっていて、逆に言うと小林のような曲を聞くのではなく、曲を聞いた感想とか分析とかそういったものに対してのその語り口について云々するのは全くの無意味というかそんなひとはいらないということではないでしょうか。