大学の財源や予算はどうあるべきか

X(Twitter)で某官僚の方が発言したことで学者の方々がいろいろともりあがっています。

中には学者もロビー活動できないといけない、というような意見も見ました。

日本の国立大学は間違いなく、明治時代に”遅れた”日本を西洋化するための機関であったわけです。そのためもともと”国策”として作られてるので、そこは国費が投入されて、学生も国のために学ぶ、ということが期待されていたと思われます。

戦前の経済学はマルクス主義経済を学んでいたのでしょうけど、それは当時の最先端であったからなのではないでしょうか。

結局戦後になると、今度は学問の自由が言われ、国費が投入されながらも教授会が予算を決められたのでしょう。

日本の財政に余裕があるころはそれも許されたし、戦前から続いて、ある時期まではとにかく工学部にお金をつぎ込むということが中心だったので、割と産官学の連携は取りやすかったと思います。土木や原子力などをみると、見事に連携しています。

しかし、時代がそういった国の投資としてわかりやすいものから”情報”のようなわけのわからないものにかわると一気にそこはうまくいかなくなってきます。そこで今度は軍事産業というくくりで、最新の電気工学分野やソフトウエアなどに投資しようということなのではないでしょうか。大学もそういった指向の学部などにはおそらくお金をつぎ込みやすくなるのだろ思います。

もちろん社会の要請に合わせて大学が形を変えていくことは大切と思いますが、一方では当然学問は短期的なものでないので要望にあっているのかどうかはやっている人の認識次第というところもありそうです。

日本でも第三者評価をやっていますが、なんだかあやふやな感じで、社会の要請にどこまでこたえているかの評価はしていないのではないか。

また、確かに学問は事業ではないので、国費を投入する必要はあります。当然成果は社会に還元されるので、社会は負担する正当性があります。

しかし成果が特定の企業や自衛などにしか還元されないとしたらそれはちがうだろうということになるでしょう。日本の大学は極めて難しい立場になってしまったことが、いろいろな場面で明らかになってきたと思われます。

驚くのは大学病院の運営まで一般の教育とおなじ大学が財政面に責任をもたないといけないということです。病院の運営はそれ自体が非常に難しいもので、それを大学に任せれば、例の旭川医大のようにコロナ患者は受け入れないということになるでしょう。

とにもかくにもいろいろと整理しないといけないことがあるのに、文部科学省が相変わらず大学は自分たちの縄張りみたいな意識であることは大きな問題だと思います。