選択と集中

昨今ノーベル賞のカリコ氏の話がでてきて、選択と集中の弊害についていろいろといわれている。

日本でのこの議論が危険だと思うのは、日本のような国ではかなりもともと国の力が強いので、国の保護がなくなると、民がそれを支えることが難しくなることが多々あることだ。

そして、バブルのころなどはむしろ今よりも民がお金を使えたところも今はなくなってきているように感じる。

例えば芸術分野や科学分野などだ。

また、もしかすると、アルバイトなども、もしかすると時給は安かったかもしれないがいろいろな仕事があって、もっと楽に稼げていたかもしれない。

極端に言うと、例えば教育への投資を幅広く行うよりもエリートに集中して、残る子供には職業教育を早くから行う、というようなことが、昨今のエビデンスベースととかいうやつだと出てきそうな理論だ。しかしこれはもしかすると、大学の学費が無償のヨーロッパなどと日本では全く違うことを結果として招きそうなことをエビデンスベーストの人たちは言おうとしない。(もちろん日本ではまだやってないのでエビデンスも何もないのだが)これは全くひどい話で、例えば、女子は家庭に入るから教育しても無駄で、男子だけに教育したほうがいい、というような選択にもなりかねない。

実際、いま、地方の進学校ではたいてい進学コースなるものがあり、そこ以外の人たちと大きな力のいれようの差があるらしい。

なんだかだ。

そして選択される東京大学などに入り、選択される大企業などに入り、国民の税金を使う立場になる、ということか、、、

なんとも暗い未来だ、

日本が選択と集中というのであれば、もっと民間が力をつけて、国家に頼らない基盤を作っていかないとまずいだろう。

例えば放送の分野などでもきちんとしたニュースサイトを民間からのクラウドファンディングなどで立ち上げて、記者がきちんと活動できるだけのお金を集めるなどだ。ゲスト出演させるようなサイトはあるけれども、きちんと自前でスタッフをそろえられるだけの財力がなぜ日本のニュースサイトにはないんだろう。不思議だ。

また、研究機関などももっと民間が投資してある程度のリスクのなかでやっていかないとまずそうだ。こういった分野に過度に国家が参入することはまた問題であるように感じる。

ということで、金融市場以上にもしかすると知財の分野、先端技術の分野はハイリスクハイリターンの世界かもしれないが、金融市場がある程度先読みできるようにしかならない以上、もうハイリスクハイリターンを民間が望むのであれば、ここにお金を出していかないとどうしようもないのではないかという今日この頃です。

そういった意味でも国はある程度平等に配っていって、あとは民間というのが健全ではないかという感じをもってます。