朝日新聞12月22日を読んで(2)

ロスジェネ世代の叫びが問うもの 人形劇番組に垣間見たNHKの役割:朝日新聞デジタル

毎月のように内容が薄い論壇時評で本当にどうしてこんなものしかでてこないんだろう。日本の論壇ってこんな?としか思えなくなる。

もちろんそんなことはないわけで、単に筆者の選択がよくないのだろう。やはり東大でもちゃんと法学部のようなところじゃないといい加減な先生もいるということか。ある意味大学はブランドだけでは評価できないという貴重な題材として役立つ記事かもしれない。ところでこの記事のどこがまずいかといえばすべてまずいのだが、NHKの役割の公共性といったときにもちろんそれは憲法で言うところの公共の福祉とかそういった時の公共だろう。大体が筆者の書く「一つのまとまりある公共」がかつて存在したの?それはなんなんだろう?よくわからない。なので必然的に筆者の筆はいろいろと思わせぶりにあちこり行ってみるだけだ、例えば確か私の中ではNHK教育テレビの番組を丸投げした結果責任をとれずに辞めた(私が責任を取るといっているのは自分が依頼し会社に対してきちんと放送できなかった責任という意味。プロジューサーたるもの腹を切ってでも放送はしてもらえるように努力するのが責任を果たすってことで、それができないなら確かにやめるしかない)永田某の”NHK幹部は社会について不勉強”って全く驚いた。なぜなら、永田某自体がそういった小生からするとまったくプロジューサーとしての責任を果たせなかったのに、なんの反省もなく被害者のような顔をして、堂々と大学で若者の前にたっているらしいということを聞くからだ。大体がこの人自体どこまで勉強して大学教授を名乗っているのだろう。Wikiで見たところは博士号などは学んで取った経歴もないようだ。NHKの看板を生かしてまあ転職したんだろう。いい気なもんだという感じだ。そういう人がNHKの幹部は不勉強ということばを筆者は提示する。そして驚くべきことに筆者はねほりんぱほりんNHKの公共放送としての希望を見るのである。私は筆者がどれだけこの番組を見ているのかはわからない。確かに個人的には好きな番組だ。しかし、これが公共放送かというとやはりちょっと違うだろうとおもう。まずは、タレントに頼らずとも作って見せるのが公共放送のうでじゃないのか。山里亮太とYOUはよくやっているとおもう。ただ、彼らのキャラクターは確立した人たちなわけで、彼らを起用した時点で公共にはなり得ないと思う。昔のタモリの真似していたNHKのアナウンサーのようなそれこそ”公共”放送的なアナウンサーは今はいなくなっているように感じる。ちょうどこの記事の下にのぞ自慢のアナウンサーが”夫さん”とか”パートナーさん”と呼んでいることを称賛しているコラムがあったが、昔の公共放送的なアナウンサーがそういったのならいいんだけどいまは私も時々見るがなんだかキャラクターのひとつとして言っているような気がしてあまりいいように思わない。筆者はあまり触れていないが、公共放送とはやはりひとしく皆がお金を出して番組をみるための放送だ。だから特定の人にだけいいものではなく、だれもがみられるもの。筆者はFOXニュースをあげるが、わたしはCNNもいいとは思わない。嫌いではないがあからさまに民主党支持で、むしろトランプ時代のほうが常に話題があって面白かった。そんなのは公共放送ではないですよね。なぜそれを書かないのだろう。というところで、筆者自体の新聞という公器に書いている意識の薄さも透けて見えてきそうだ。