日刊スポーツ政界地獄耳(7月9日)

【政界地獄耳】会長死去後も受け継がれる、あしなが育英会創立の志 - 政界地獄耳 - 社会コラム : 日刊スポーツ

なんとも薄味と感じた。確かにあしなが育英会出身者の政治家がいるのはわかるのだが、本当にあとから書いていることが正しいのかはわからないところがあると思っている。結構自分の苦労を表に出す政治家が多いが、それは自身の今の政治姿勢とどうつながっているのか全く分からないひとも多い。

政治家が評価されるのは実際に成し遂げている、または成し遂げたことで、それは客観的なものであるべきだろう。そして、その理由として、過去の成長過程にかかわることがあるのは、自らが書いている成長過程の出来事だけから、そのひとはこういうことをやってくれるはずだ、ということは言えないと思っている。

まあ学歴偽装など跋扈する世界で、成長過程のことなど取材すればずいぶん実際とはちがうこともあるのではないかと思うのですが、、、

日刊スポーツ7月6日選択制別姓反対の方には胸が痛む記事

【陸上】フロレス・アリエ「次から青木アリエ」家族呼んだ「特別な大会」で3着/日本選手権 - 陸上 : 日刊スポーツ

こういう記事がでていた。これまでフロレスという名字でよかったのが”青木”らしい。サニブラウンはそのままでいいけどこちらは違うらしい。親と違う名字。なんともである。これは自分で選択したのだろうか?それとも地方公共自治体によって扱いが違うのか。例えば相撲やバスケットボールの選手でも帰化すると漢字を当てるひともいるようだし、全く別の名字を使う人もいて基準がわからない。それはともかくとして、家族の中で親と違う苗字を使っていることは確かだ。家族の一体感というのは家族の中の国籍を超えるとしたら、こういうことに断固として国会議員の皆さんは反対して、カタカタ苗字で帰化できるようにしないといけないのではないだろうか?どうだろう。

さらにいうとこういう記事を嬉しそうな感じで書く記者というのもどうなのか。別姓賛成の人にはこういうひともいるのだろうか?

朝日新聞6月30日沖縄と柳宗理の琉球語に関する記事

この記事はちょっと短絡的過ぎる記事だと思った。

孫引きではあるが、沖縄では昔”方言札”というものがあり、授業中琉球語を使うとそれを首からかけられて、次に誰かが使うまで掛けていないといけないということだったと読んだ記憶がある。もしかしたら柳田国男からの孫引きかもしれない。

21世紀の現在例えばウクライナではゼレンスキーなど俳優としてはロシア語を使っていたと読んだ気がする。そのような旧ソ連の言語政策があり、一方逆に今ではウクライナ語を使うかどうかは非常に機微なことなのだろう。かくも一つの地域での言語は政治的な問題をはらむのは21世紀の今日では常識と思うのだが、そのような常識を朝日の記事には感じなかった。なぜだろうか?

 

朝日新聞2025年6月30日普通選挙法

女性含まぬ「普通選挙法」100年、現在地は ジェンダー史、姫岡とし子・東京大名誉教授に聞く:朝日新聞

歴史学のひとがいうとそうなるのかもしれませんが、これはもっと家族というものも絡めた観点が必要ではないかと思いました。

そもそもが選挙って家でひとりやればいいくらいの、そんな感覚だったのではないでしょうか?そうなると専業主婦が当たり前の時代では男子だけになってしまってもしょうがないところもあると思います。

その辺の家族と選挙の考え方なども深堀しないでただジェンダーのことをいってもとびすぎでこどもなどには表層的な”知識”になるだけで、家族を代表する男子、のような考え方から説き起こすことで現在の選択制夫婦別姓のようなところにもつながる根深い問題があることに気が付けるのではないかとおもいました。せっかくのいい題材がジャンダーの視点だけで終わるのはもったいないなあと。

 

日刊スポーツ6月27日記事

「芸人かな」立憲民主党の女性議員“ラップ動画”削除後も拡散 女優は「痛い」身内議員も疑問 - 社会 : 日刊スポーツ

なぞの記事だった。

なぜ女優が関係ないひとのことをいうのかわからないし、一番わからないのは身内議員と言われている塩野議員の反応だ。

まあテンションが高くてあまりいいとおもわなかったのであれば、それはそれでいいんじゃないだろうか?みなさんこれだけの熱意をなぜもっと発言の内容自体問題ある映像などに対しては向けないのだろうか?

ということであるがここでは鎌田議員のこれまでの経歴も影響しているのだろうか。鎌田議員は若い時からとにかくいろいろな議員をいろいろな政党を渡り歩いてやってきたひとのようで2005年の仙台市長選挙に立候補して落選したあと16年間苦境の日々だったようだ。その間は県議会議員もやったようだが、とにかく選挙大好きなひとなんだろう。ちょっと確かに謎はある。しかし、これだけがんばるというのは好きだけでなく組織の維持なども大変なんだろうなあと思わされるところだ。

一方結構記事だけ読むと上から目線な感じの身内議員は塩野議員だ。こちらの方は前にも書いたが都議会議員のあと、広島から衆議院議員選挙に当時の民進党で立候補して落選。そしてそのあとなぜか東京から参議院の立憲の候補者としてしてでて当選ということらしい。なんだかよくわからないひとで、こちらはよくわからないのだが、鎌田氏と違ってうまく渡り歩いているだけの人のように見える。自己プロジュースに長けた人のようなので、そういった観点からの鎌田氏への批判なのか。

こういった批判について、まあ投稿する方も投稿する方だが、それを載せる新聞も新聞。面白ければなんでもいいという感じなのだろうか。こういったことで批判されるひとはどういうわけか傾向があるように見える。そして、それを上から目線でいってるだけのひともこれまたマウンティングするようなことが上手い人という傾向は見受けられる。

まあ選挙ってそういうもんだと言えばそこまでだけど、良し悪しは別にして地元の組織をきちんと大切にして、日頃から政策などを知らせる活動をする、などより、テレビなどで頭良さげなことをいうことが報道されたり、ネットでそのような映像などが拡散されるほうが票につながるということも影響するのだろうか。あまりいいこととも思わないが。

それにしても立憲の参議院東京選挙区の候補者は結局蓮舫氏も戻ったりしてどうなんだろうなあという感じだ。タレント議員ばかりで本当にいいのだろうか?どうしてそうなるんだろうか?わからないことだらけだ。

--------------6/29追記ーーーーーーー

〝ラップ動画〟立憲女性議員が生謝罪「不快な思いをした方が非常に多かった」「すべて私の責任」 - 社会 : 日刊スポーツ

このような記事がでた。不快はだれなんだろう。まあ見ていないのでわからないが、記事の中でないように触れたのは大企業を守らず中小企業を守ろう、というところだけであとは”ハイテンション”とかまあそんな感じの動画の解説だ。

あちこちで発生しているヘイトやフェイクニュース的なものであるということは記事を読んだ限りはなく、不快としてでてくるのは具体的には塩野議員のコメントだけだ。まあ放送作家出身者としてはできの悪い映像に一家言あるのかもしれないが、それ以外に不快に感じたといって出てくるのは前の記事では女優だけだ。また、記者自体がどの部分を不快に感じたのかもわからないし、どういった層の人が不快に感じたのかもわからない(大企業の連合関係者か?)。おそらくは”不快”ということば本来の単なる不快なのだろう。マスコミがいうところの”不快”はしばしば特定のひとへのヘイトや本当に傷つけるような場面(例えば性暴力)でも用いられるのでついついそう思ってしまうのはある種の人たちの誤用によるものであるのかもしれないと感じた。

 

なぞの政府広報

政府広報でXに流れてきた

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このバブル崩壊後に就職活動を行った「就職氷河期世代」。皆さんは、この20年、30年の間、それぞれが悩み、また、頑張ってくださいました。
政府は、そんな皆さんに寄り添います。ような広報がXに流れてきた

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なんだこれっていう感じだ。2000年代小泉竹中改革で労働者の派遣をすすめていったことや、”経済界”の要請で労務費を抑え込むような施策をうってきたことが原因じゃないのか。大体2013年以降は労働市場はよくなってきたといことで、20年、30年ということは逆算すると1995年以降2005年までということでしょうか。

完全に自民党の政権下でいろいろな施策はなんだったのだろう?

その間の施策はどうだったのかはっきりといってほしいものだ。

しかし問題はそれだけではない。2005年以降の正社員というのはこんどはジョブ型雇用というやつがまっている。そうなると永遠に年金などは増えるようそもなく、もちろん一部のひとは相変わらずそれなりの額を得るのだろうけどほとんどは一度途中でやめてリスキリングで無休のときなどもあったりするので、年金の原資は減るのだろう。もちろん女性進出で夫婦で働くというパターンであれば、なんとか生活はできるだろうし、今のように年金を納めていない人たちに年金を負担することもなくなるということなのだろうか。と考えると国民民主の社会保険料を減らして手取りを増やすというのは結構破壊的な政策で、将来自分たちが受け取れる年金は確実に減るので、結局その場しのぎの政策にしかならないし、この広告がいっている、30年、20年働いてきたひとが例えば30年といえば50代ですが、そこで仕事を新たに見つけろと、そのようなことが現実的にどうなのかですね。

となんだかな政府広告で結局は厚生労働省の役人の天下りのネタが増えて、彼らにとってはいい政策なのでしょう。

朝日新聞6月27日佐伯啓思氏のコラムをめぐって

佐伯啓思さんが見る戦後80年 「ごっこの世界」は終わらない:朝日新聞

ひとことでいって、なんだかなあという印象だ。

そもそもが「ごっこ遊び」では人は死んだりはしないわけだが、何しろたくさんのひとはその思想に殉じている。それは佐伯氏がいうところの”ごっこ遊び”じゃあ生きていけない、ということだったのだろうか?もし”ごっこ遊び”が嫌ならば海外に移住する、隠棲するなどいくらでも方法はあるべきだが、そんなことはしていない。むしろ三島由紀夫氏自体が世間からは”軍隊ごっこ”をしている人とみなされて最後はあのような末路をたどった。佐伯氏の文章からは世間が考えた三島氏の軍隊ごっこについては触れていない。また、同じく佐伯氏の同人の西部邁氏はどうだろう。また江藤淳氏はどうだったのか。小生は江藤淳氏も確かに佐伯氏が書くようにいろいろなことは行ってはいるが、彼の中ではむしろ一般の日本人よりもよほど”アメリカ”へのあこがれのようなものは強かったと思っている。佐伯氏も含めて日本の知識人の思想を写す鏡としては米国というのはあるのだろう。一見反対に見える人たちが、実はあまりかという鏡に写ると逆だけど同じようなものなのかもしれない。むしろ米国の傘の恩恵を受けたのは、留学などの実益も含めて知識人だったのではないか。また、中には占領下で密告をした人たちもいたと聞く。そういったことは佐伯氏は触れず、なんだか大衆への憎悪のようなものすら感じる。

佐伯氏がいうところの戦後は1970年の万博を契機に終わったのか?というのも大きなところだ。小生は戦後というのは別に戦争をどうしたというのではなく(もちろんそれも大切だが)やはり、日本の領土まで攻め込まれて敗戦に至ったというのは大きな出来事であって、政治的、経済的な総括で区切りがつくものではないと思う。佐伯氏は経済的に豊かになったことをいうのだが、例えば南北に分かれたままの朝鮮半島のことや沖縄のことを考えれば決して戦後が終わったなどとは実感としても言えないと思う。また、靖国神社に親族を祭っている人たちも冗談じゃないということではないのか。

つまらないことだが、佐伯氏がいう終戦サンフランシスコ講和条約だというのはへーだった。通常はミズーリ艦上での全権大使の署名をもって終戦と考え、そのあと米国の統治なども始まったと考えているのではないだろうか。正式な署名前は今のイランとイスラエルなどをみても、弾が行きかったりすることもあるわけだ。

もし佐伯氏が”天皇玉音放送をもって終戦”ということについて、戦後の今も天皇が日本の君主であることについて、あれこれというのであれば、それはそれでわかるのだがそういったことには触れていない。サンフランシスコ講和条約終戦だというのはどういうことなんだろう。一般市民にとっては、弾が行きかうようなことがなくなれば”終戦”なのだと思うのだが。佐伯氏的な言い方をするなら、今の国連自体がどういう国の連合かといえば、枢軸国に対して連合した国なのであって、もしかするとサンフランシスコ講和条約ではなく、国連加盟をした1956年12月18日をもって終戦とすべきかもしれない。

まあどちらにしろそうした新たな戦争は起こしていないし、逆にいうと日本は国連に加盟するなどして国際社会に復帰したが、日本の占領の後の影響が世界には残っているのであって、それが続く限りは戦後は終わらないので、当然”ごっこ”などではないと思っている。佐伯啓思氏は1980年代は輝ける存在だと思ったが、なんともな感じで残念なことだ。