朝日新聞2月11日憲法季評

(憲法季評)信仰に基づく政治活動支援 民主政と宗教、分離問われる時 安藤馨:朝日新聞

なんだかだ。まずは政治と宗教を分けることは日本国憲法で明確だ。安藤氏はあれこれ書いているが、小生自身信仰者として全く安藤氏の論説に納得できなかった。まずは小生が考えるに信仰者としての真理は確かに信仰者しか得られないと考えるが、それをあえて他の宗教の信仰者が同じ信念を持つべきであるとは思わないし、自分の考えている真理自体も同じ宗教の信仰者であっても違うような”真理”に至ることもありうると考える。例えばおおよそ多くの宗教でひとを殺すことは悪とされているのではないかと思われるが一方では宗教者または宗教を信じるひとがひとを殺すことは行われていることであり、むしろそれが宗教的な真理と考えている人もいるだろう。そのくらい、宗教的な真理というのは行いに至る過程では個人という受容体?を経るゆえに、さまざまな表出をせざるを得ないことを多くの信仰者は理解しているのではないだろうか?

ということで、まずは安藤氏がいっているところの宗教的な真理を政治と切り離せないというのは全くの戯言と思われることを指摘したい。宗教者は宗教的な真理と政治は分離していることは理解しているのである。

最後の部分の宗教団体の献金についてであるが、これは全く止める必要もないし、止めるのは無駄な話であると思われる。むしろ立法や行政(支出)、司法でそのようなことがおこなわれないことをチェックすることにより、特定の宗教に有利に働くことがないことをチェックすればよい。例えば”平和”をいう宗教団体(これも先に述べたように、その宗教の中でもひとによって考え方はまちまちかもしれないが)が、憲法9条を守れば平和は守れると思い、そのような政党を支援することに問題はあるのだろうか?これが例えば、その宗教団体の考える”平和”を広めるための冊子などを学校で配布することなど求めたり、その宗教の教義から生まれる平和を公立の学校で述べるようになればそれはそこでチェックを働かせれば良いのかと思う。

逆に前に書いたように多くの宗教者は宗教的な真理と政治は一致しないことをわかっているのであえて政治的な力を選挙応援や政治資金の献金という形で発揮するわけである。しかし、それは三権分立の中でチェックされなければいけない。チェックすることによって無駄であることがわかれば、献金なども適正な目的のものだけがのこるだろう。それは全く問題ないと思われる(が行われるかは別だ)。

もちろん司法といっても米国などでは同じキリスト教とでもさまざまな立場があることを思い知らされる。しかし、逆にいうと、その人が持っている宗教的なバックグラウンドを明らかにして、それこそ国民審査するほうがよく、日本のように、だれがどのような背景を持っているのかわからない状態で”中立”を装うのも妙なことである。チェック者として、当然特定の宗教から中立でなければならないが、しかし、それがどういったことであるかは逆にその人の宗教的背景をしらないとわからないこともある。

これは例えばサッカーやバスケットボールのレフリーが、プレーヤーをよく知ることでよりうまく判定できること共に似ていて、その裁判官がどういった背景を持っているか明らかにすることで、バランスをとることもできる。

そう考えるとやはり立法府である国会議員の選出について、宗教団体の支援がどうかということかと思うが、本来やめてしまうことがベストといえばそうかもしれないが、現実には宗教団体直接献金ができなくなれば、別の政治団体を作って、そこを迂回するだけではないだろうか?そういった献金は構成する信者の了解を得ている以上、完全に無くすことはできない。しかし、逆に先ほど書いたような”平和”というような政治的にも取り組みやすいテーマを取り組める方法で政治の俎上に載せることはできると思われる。

これについては、実際大きな宗教団体ほどとりまとめは難しく、安藤氏の書かれるところには全く納得させられなかった。

また、安藤氏の中でカルトと宗教の区別がついているのかは不明であった。今自民党を支援して話題になっているのはあくまでもカルトである。このようなカルトが自らの利益を守るために政治を利用することは当然問題であり、それはそもそもがカルトへの最作という観点で行われるべきであり、それは日本または社会を豊かにするものと考えられる宗教とは別物であると考える。