平和を守るのは憲法なのか?

昨日NHK教育テレビで砂川闘争のことをやっていた。

それを見ていて思ったのだが、やはり、当時は朝鮮戦争があって、米軍立川基地から朝鮮半島に向かう兵士や戻ってくる兵士、死体で戻ってくる兵士など、今よりもずっと戦争というものが身近に感じられたのだろう。それは、番組の主人公の方がかたっていたように、平和憲法があるということだけでなく、それが実質としてとらえられていた要因だったと思うし、海外の戦争でもそれが報じられると、デモに関しても反応が変わってくる理由なのだと思う。

また、その前日まで2日にかけてロシアの教育についてのドキュメンタリーなどをみても、いくら教育で愛国をうたっても、実際に戦争の犠牲などがあれば、それは逆に言うとそれなりの”大義”がないと耐えられるものではないようだ。伝えられているようにロシアでは物の不足などなくて、どうのというような感じではなく、やはり、戦争によって、いろいろと生活上も影響はあるようであった。それにもまして影響があるのはひとのこころで、学校の中でも、国を称賛する先生もいて、どうも戦争に対して否定的なことをいうことは難しくなる。要はみんな我慢しているのだから、我慢するのが立派な国民というわけだ。

日本はどうだろう。例えばつまらないことだが、感染症がはやったときなど我慢の連続だった。それはしかたないこととされていたが、ところがどっこい、そうでもない人たちがいたことはよく知られているところだ。

結局は国民への我慢というけど、そうじゃないほとと二層化していて、我慢しなくていい人たちというのもいて、一方我慢のひとがいるというのが戦争なのではないだろうか。

ということで、最初の話に戻ると、戦争というとしばしばどんなひとでも兵隊になって平等なのでどうこうというひともいるが、実際は違う。というようなことも理解していたので日本国憲法国民主権などの概念は広く受け入れられたし、それと戦争の放棄はきっといまよりもずっと実感をもってセットで受け入れられていたのではないだろうか。

そうすると、今の”努力した人が報われる社会を”とか”公助ではなく自助”のような、話は、結局は国民の間に格差をつけるものではなう、一度付けた格差はそれを維持するために、いろいろなことが始まる。例えば株が高いままであれば、金融資産をもっているひとは有利なわけで、とにかく財政破綻させてでも株価を上げることで、政権は維持されるわけだ。

しかし、そういう社会で日本国憲法の精神は十分に理解されるだろうか?結局憲法は建前とみなされて、軽んじられていくのではないだろうか。

しばしば識者からは政治家が憲法を重視しないとどうこうという話が出てくるが、小生はそれは逆で、人民の中に、不平等は当たり前、戦争も別に悪くはない、といった発想が出てくるような社会のほうが問題なのだと思う。それは決して法で守れるものではなく、絶え間なく平等の大切さや戦争がいかに悲惨なものかを人民が実感していることで初めて”よい社会”は成り立つのだろう。

それが逆に憲法があれば歯止めがどうこうといっているひとは全く勘違いで、いくら憲法があっても、それが国民に重視されなければ、それを破っていくことは簡単なことだ。小生はまず憲法云々というような議論ではなく、まずは平和を皆が愛すること(憲法に書いてあるが)それを真剣にやることが第一だと思う。

思えば小生が小中学生のころ、一見憲法を擁護していた教師は今思えば某政党の拡張を指向していた。某政党の前衛思想だと、知識人が”正しい”理論で一般人民を導く、ということなのだろうが、そうではなく、”平和”に関して、よい教育を受けた国民がいろいろな意見を交換できて、納得することで、社会の安定は守られると思っている。