MLBをみていて国家とは

MLBワールドシリーズの第1戦のオープニングセレモニーをみていて、今回はトロントなので、米国とカナダの国歌を演奏していた。ドジャースのフリーマンという選手は2重国籍で、カナダの空港ではカナダのパスポートを見せろと言われたらしい。パスポートって国民を守るしるしのようなものだから、国家としてフリーマンを保護する対象として考えているということなのだろう。そして、テレビに映っていたがフリーマンはカナダ国歌を歌っていた。

米国はネイティブもいるが、ほとんどは移民の国である。そして、まあたいてい野球などをやっている人たちは移民の子孫か移民、または海外からの選手なのだろう。しかし、そういった選手たちが野球というスポーツを米国の保護のもとにやっているのが国歌を歌う意味なのか?

そして、しばしば感じるのは、米国ではマナーはありつつも、国歌の歌い方については相当に個人の表現が許されているということだ。それは当然それぞれの国家観というものの表現の自由さにも通じるのだろう。それは一面では分断になってしまう。しかし、じゃあ日本を考えてみて、日本の国家への敬意の表し方のようなものは、相当に画一的であるように思われる。それはやはり日本が天皇という君主がいるためなのだろう。要は国を愛するということは天皇を愛するということなのだろう。しかしここで日本固有の問題は起きてくる。天皇は国民の統合の”象徴”であるから、それは人としての天皇ではない。象徴としての天皇への敬意を示すことが国家への敬意ということになる。

ということで、本来はやはり、象徴としての天皇が中心なので、日本人の国家への敬意というのは、かなりバリエーションはあってよいのではないかと思うのだが、そうはなっていない、なっていないので、いつまでたっても教育勅語がどうのという話になるのである。また、もし例えばバスケットボールのハーフの選手がオリンピックなどで、親の国と対戦することになって、その国歌を歌っていたらどうなるだろう。おそらくは相当なバッシングを受けるのではないだろうか。もちろんここには日本のスポーツの特別な感覚もあるのだろうが、何か国家というのはひとつに尽くすもので、それはあたかも選択制夫婦別姓に嫌悪感を示す感覚とも似ているように思うが、何か二つの国に忠誠を示すことは、許さないというような感じを受ける。

しかし日本もいつまでも同じような肌の色をして、同じような骨格を持ち、同じ言葉を話すような人たちによって成り立つ国と思っていていいのだろうか?先ほどバスケットボールのことを書いたが、今の男子のBリーグや女子のWJBLを見れば、もう日本人といっても多様なルーツを持つ人たちがいることは一目瞭然である。もちろんバスケットボールだけではなく、さまざまなところでそういった人たちもいる。そのときに、そのひとたちのルーツを否定するような”国家観”は持つのだろうか?むしろそれらの人たちも自らのルーツにほこりをもって、しかし、日本という国でいろいろなルーツを持つ人たちと一緒にこの国に敬意を持つことが国家としての日本を愛することなのではないだろうか?国を愛することにひとつの型を決めてそこに流し込むような教育は、百歩譲ってその教育を受けた人にはいいかもしれないが、大人になってきた人には通用しないのである。ということで、ほかにもMLBを見ているといろいろ考えるところがあるが、途中で終わり。