篠田節子氏の小説について、モデルについてのこんな騒ぎがあるらしい。
弊社刊『青の純度』につきまして | 集英社 文芸ステーション
そもそも時事通信もそれに応じた原田氏もフェアではないと思うのだが、書評はあくまでも書評であって、書評といいつつ、問題点を指摘するのは違うのではないか?もちろん学術誌や学問の紀要などではそういった書評もあるだろう。しかし、それは学会という専門的なコミュニティのなかでの書評であって、一般の新聞にのる書評というのは読者が読むと有益と思われる本のご紹介だろう。もちろん朝日新聞が昔書評委員であった草野厚氏に書かせた鈴木雅明氏の書籍への書評も同じようなフェアではないものであったので、新聞の側では小生が考えているようなものではなく、腹に一物ある人たちに批判させるのも書評と思っているのかもしれないが。
それにしても、そもそも小説は論文ではない。したがって、小説家の名前は著作者として出るけれども、編集者と二人三脚で実際は作られていて、資料の提供などは編集者が行っている場合もあるのではないだろうか。したがって、原田氏の非難は篠田氏個人に向けられるのではなく集英社に向けて行われるものであったと思われる。それをあたかも学術論文の著者のような扱いで篠田氏個人があたかも資料の収集などをおこなったかのような書き方はまずいだろう。集英社側も小説の常として、資料収集などを自社で行っているので、その点はむしろ出版社から説明を受けるべきだったのではないだろうか。もちろん小説家の名前で著作物としては世に出るわけなので、編集者が集めた資料は吟味して使わなければいけなというのは確かだが。
そういえば、最近集英社の「青春と読書」には歴史ものを研究者と相談したりして、小説化した対談もでていたので、小説家によって小説家ならではの記述を入れて歴史もの、はジャンルとしてあるのだと思っている。これもサポートした学者の関与を明確にするうえでよいことだったのだろう。考えてみれば三国志などはほとんどは訳者がいなければ小説家の三国志は成り立たないわけで、それに対して原田氏のようなことをいった中国文学者などはいたのだろうか?
また、この一件を読んで思い出したのは、俗にいう悪魔の飽食事件のことだ。当時森村氏はあまりいっていなかったが、この書籍は複雑で、ある新聞記者の某氏ともとの出版社のK社が絡み合って、森村氏も主には記者某氏と資料収集は行っていたようなことを自らも説明としてどこかに書いていたと思う。しかし、最初に問題の写真を持ち込んだ人がだれとコンタクトしたのか?編集者と記者のどちらかを経由して森村氏に届けられたように経緯の説明はあったが、今すぐ確かめられないのだが、少なくとも間接的な提供であったことは確かだったと思う。
ということで、篠田氏に対しても森村氏に対しても、小説家の書き物は、編集者との二人三脚が前提であって、それは若干ノンフィクションの世界とも違って、ソースを小説家はすべて明らかにしたうえで書くわけでもない、というのは常識なのではないかと思うのだが。
昔松本清張氏はある題材で本を書くとき神保町の古書店からはその分野の本がまるごとなくなるくらい、資料を自ら買い集めたと聞いたことがある。
しかし、松本清張氏の小説に当然引用元は書いていない。そこには松本氏のオリジナルな思考が入っていて、それを資料の作者に結びつけるのはかえって問題が発生するからではないかと思っている。
ろいうことで、ネットでは、引用について云々という話が怒っているが、的外れであるという印象だ。
(表現をそのままパクるのはそりゃあ剽窃ですが)