今日の折々のことばは大森荘蔵氏の論文からの引用
これだけでも十分なお言葉だが、本日の朝刊には野田秀樹氏のインタビューも載っていた。
こちらでは最初に10年前のインタビューのことばとして、
――10年ほど前、野田さんが「人が何かを受け止める順番は『感じる・考える・信じる』のはずなのに、最近は『考える』が抜け落ちて、『感じる・信じる』が直結しているのではないか」と指摘したことが強く印象に残っています。
という記者のことばから始まる。
このふたつは響きあってるし、もしかすると野田氏は大森荘蔵氏の講義も受けたことがあるのかもしれないが、ここで言われているように、そして大森氏がいうように人間は考えずに信じたり、あるものを知覚することはない。おそらくは、SNSというものは、見てそれを感じる。そこに写真だったりはたまた映像であったりして、そこにむしろことばがつくことで、そのことばが真実であるかどうかは”感じる”->知覚される”というなかではおそらくは考えることは抜ける。大森氏的に言えば自分の中で内省することはないので、自分にとって、というところはぬけ、発信者の感覚があたかもそのままインストールされるような感じか?
それってまさにChatGPTなどの世界であって、AIはどうしても一見自ら内省しているように見えなくもないが、しかし、それは外から与えられた内省で、AIの体験というものはあくまでも多数の体験?が反映されたものになるのだろう。
そうすると、もし、それをそのまま自らとすることは、ある意味大衆に従っているように見えるが、それは、少数者へのまなざしを最初から閉じることになるのではないか。
一方人間はどこまでとってもマジョリティーということはありえず、どこかでマイノリティーにならざるを得ない時がくる。そういうときに、それではどうするの?
結局はむしろ自らの個からの発信とそれを考えることによって自らに共感するひとを得られるかどうか、ということになっていくのではないか。
そこにAIなどから導かれる”知覚”というものがいかなるものかを考える端緒はあるように感じた。
今日の朝日新聞の二つのページはとても刺激的で役になった。