斎藤幸平氏の投稿から(または朝日新聞コラムニスト発表)

斎藤幸平氏があるラジオパーソナリティーについて、氏とが出演しないことについて”これがマジ、リベラルの限界なのよね”と投稿していた。

ふとおもったのは、単純に対話する、例えば書店やイベント会場で対話する、ということと、ラジオのパーソナリティーとして自分の番組で対話するのは別だろうということだ。NHKでも民放でも、そこには”公共の電波を使って意見を述べてもらう公益性”のようなものは必要だと思う。ここで難しいのは少数者の意見については、”それを知ってもらうことが公益性がある”と判断するか、公益性はないと判断して出演してもらうことはないか、ということだと思う。逆に多数派の意見といっても電波に乗せて改めて放送することは必要ないようなものも、あまり自分の番組に呼ぶ価値はないだろう。

そうなってくると、もう、語る相手の”人”によるところはあって、その人がどういう人かということにもよってしまい、そこには”好き嫌い”が入ってしまうだろう。

また、当然のことながら公共の電波を使うパーソナリティーはそういう”好き嫌い”をある程度通せる権限があるわけで、そこには責任も生じる。それを考えられる人でないといけないと思うのだが、長くやっていると、そういったことがなくなる、という批判かとも思う。例えばこれが音楽のリクエスト番組で、歌謡番組に洋楽もかけろという人はいないと思うけど、ときどきかけることでちょっと聞き方が変わるかもしれない、といっような幅は持った人の方が”公益的”かもしれないとも思う。政治的な意見はもっとだろう。ということか。

ということで、長く番組を持っていると、あたかも自分の好きが優先されて、それをみんな聞きたがっている、というのに慣れてしまうといけない、という話しかなと感じた。

ところで、朝日新聞朝刊で”コラムニスト”というポジションに4人の人が付いたことが紹介されていた。この中で失礼なことにサングラスで写真を載せている記者もいて、とても不愉快だったのだが、要は執筆だけではなく、各地に講演なども行くのよんでくれということらしい。なんだかだ。普通コラムニストというからには、専門性の高いコラムを知見に基づいて書くということを思ってしまうが、どうも朝日新聞夫定義はそうではなく、朝日なんとかがマネージメントして、拡販のために、各地を回る役目らしい。

まあ吉田純子氏のように、”音楽”という特技が決まっていて、各地の学校の先生などとも交流があれば、容易にいろいろとお呼びがかかりそうだ。ほかのひとたちは朝日カルチャーセンターで外回り仕事を埋めるのだろうか?よくわからない制度だ。

まあ朝日新聞ちゃんと肩書を与えてこういう仕事を差配してくれるという、読者からするとどうでもいいような記事をちゃんと1面カラーでやってくれる。

それにもかかわらず、サングラスで写真を載せてもいいと思う傲慢さはどうなんだと思うのだが。

先ほどと同じことで朝日新聞のコラムニストは朝日新聞で自分の文章を載せられるという日本の中ではかなり特権的な位置にいる人だと思う。フリーの記者にはこういう場はほとんど与えられない。しかしやはりここでも”公益性”は求められると思う。

特定のファンに向けて書いていればいいわけではないだろう。小生はさんざん近藤康太郎氏について書いてきたが、要はそういうことだ。政治的にどうというのではなくても、自分のファンに向けてしか書かない人間に場を与える朝日新聞のスタンスはよくわからないところだ。例えば先ほどと同じような例でいうと、朝日新聞のCDの紹介の欄で自分の好みのCDだけを選ぶとどうなんだろう。やはりそこには好みではなくても紹介すべきものを紹介する、というポリシーはもったひとが選者となっているのではないだろうか?昔某大学の草野某という人が鈴木雅明氏の著書を読書欄で批判していたが、こういう人はあまり執筆者としてはよくなかったと思う。

ということで、意見の違いは認めないといけない、それは確かだ。しかし、新聞にしても放送にしても、それが”公益性”を持ったものでなければ取り上げるに値しない、ということははっきりさせてもらいたいと思う。