突然思い出したのだが、深井氏の翻訳について、反省が不十分といっている人たちは、例えば辻信一氏に対しての反省は求めないのだろうか?
小生が考えるところ、学問上の不正などよりもよっぽど辻氏の”反省”がみえないことのほうが重要だと思うし、それなしで、大学が教授職につけたり、出版しているということのほうがずっと”反省”を求めるべきことだと思う、しかし、深井氏の研究不正について言う人たちは、そういったひとたちへの追及を行っているのだろうか?すくなくても小生にはそのような形跡は見えない。前にも書いたように、もし自分で深井氏が書いた典拠を確認できず、彼に求めても現物を見られなければ、それは自分は使わなければよいだけの話で、普通はそれで終わりだろう、引用されなければそこで深井氏のそういった本は学問上の命はなくなっていくだけだ。
学問の世界には深井氏の不正などよりももっと大きな問題があっても居座っている人たちがたくさんいるのではないのか?翻訳だって深井氏がやったことはそれほど特異なことなんだろうか?それがいいとは言わないが。なんだか今回の翻訳本に関しては、そういったことをいっているひとたちのバランス意識に問題を感じる。
例えば佐々木実氏のいくつかの本によれば、竹中某についてはそれこそ他の人の業績の盗用について宇沢弘文氏は明確に起こっていたということだ。こういった問題の方がよっぽど大きいと思うのだがどうなんだろう。自分の専門と関係なければ調べることもないので問題ないということなので反省していなくても気にならない人たちなのだろうか?こういうひとたちにとって学問って何なんだろうという気がする。自己満足か、、、
お断りしますが、小生は別に深井氏が不正をしていなかったといっているわけではなく、フィクションをあたかもそうでないように見せるのは立場のある学者としてどうかと思ってはいる。それであれば最初からフィクションとして書いているということを言うべきだったというだけです。