深井智朗氏の訳書をめぐって(2)

昨日の続きだが、結構いろいろと食いついている人もいるようだ。

しかし、やはりおわびがたりない、とか社会的な制裁不十分ということを言われているようだ。

それにしても、最初からそう思っているのだが、そもそもが彼の本は研究書だったのだろうか?もしこれが論文として発表したものである、という類のものならかなり責任を問われてもしょうがないだろう。しかしそうではないはずだ。なのでそもそもが学会で責任を問われるのもどうかと思うところだ。たとえとして適当かはわからないが、チューリングの伝記などを書くときに孫引きでいろいろと書いているひとはいる。学者でもそういう人はいるだろう。そのときに自分が想像した人物に何か語らせてもそれを研究不正といわないと思われる。なので研究不正とまで言うものなのかは疑問である。

せいぜいが、このような本はフィクションをいれていることを最初かあとがきで明記したほうがよい、というくらいの話ではないのか?

小生が読んだ記憶ではたしか引用などもなかったように思うのだがどうだろう。

もし引用文書が書いてあって、それを捏造していたりすれば、これは研究不正といえると思うのだが。(偽書をつかまされたという可能性はあるのか?でもそれであれば彼はその書籍を出せばいいだけで、その真偽については別の話だと思う)

小生としては、あまりに食いつきが激しいともう講談社の営業妨害に近いと思う。大手の出版社がそれなりの手続きを踏んで出版しているものの質が悪いというのであればわかる。しかし互氏はそれなりの注意を払っているように見える。彼自身が研究者であるので、あとはそもそもの問題について、必要であれば、東大教養学部周りの関係者と京大文学部のキリスト教学科周りの人たちで議論して、一般人の目にふれないところでやってほしいものだ。それは反省がたりている、足りていない、という感覚的な問題を講談社という出版社の経営にかかわる問題にしてしまっていると思われるからだ。

深井氏がどうしてここまでかたくなになっているのかもよくわからないのだが、ここまでくいつくひとがいるのをみると、理由もわかるような気がする。学者というのは自分の趣味で出版社の経営に口出しできると思っているとしたら、それは大きな間違いで、商業出版社は大学の出版局とは違うことを学者は知るべきであると思う。これについていろいろといっているひとが講談社の本を今後買わないとしてもそれは勝手じゃないの、と思う。別にそこまでするような話とも思っていないので食いつく理由はわからないのだが。自分の思い通りにならないでだだをこねているだけのように見える(深井氏が理由を説明しないことにもそのようなものを感じるが。すくなくとも岩波書店には経営上の影響を与えたわけなので)

講談社の出版物はひろく書店で売られているもので、一般の読者を相手にしたものだ。それについて過去訳者についてあーだこーだといってみるのはなんだか知的貴族の優雅な社交界での話題以外の何物ではないと思う。正直なところ小生はカルバンの書物など訳がないと読めない人間なので、そのような書物が世に問われることを喜べないことが理解できない。ようは講談社のようなネームバリューのある出版社は俺たちに訳させろということ?講談社という一般読者を相手にした出版社は当然読者に受け入れられない(買ってもらえない)訳者は起用しないだろう。仮に起用したとしても、監訳でだれかをつけたりすると思う。そこが強制的に学生が買わされる大学の紀要や、学会誌などとの違いだ。小生は翻訳そのものに誤りが多いとか、それこそ久米氏や渡辺氏の誤訳をそのまま残していてパクリじゃないかなどの批判であればそれは良いと思う。しかしそれ以外のことをあれこれXなどでいうのはなんだかみっともないと思うのだが。