戦争と平和

(耕論)被爆地で平和を語る資格 樋川和子さん、ジェームス・ズムワルトさん、川崎哲さん:朝日新聞デジタル

長崎の追悼式をめぐっての記事を読み改めて、イスラエルを招かなかったことについて考えてみた。

外交官出身の樋川さんというひとや米国の外交官のズムワルトさんというひとは、どうやら招待するべきだったという意見のようだ。

しかし、不思議なことに二人とも広島市の式典にパレスチナ自治政府が招待されていないことにはまったく触れていない。朝日新聞自体も触れないのだがそれはなぜかはわからない。

小生もイスラエルがやっていることが、正当な防衛だけというのは相当な無理があって、それまでのいろいろな弾圧については黙っていて、それに軍事力でテロリストが攻め込むと途端に非難するというのはあまりにもフェアではないと思う。もしG7の国が日常的にイスラエルに対して、パレスチナの人民も”平和”と感じるような振る舞いを求めていたのであれば、確かに一方的にテロを起こしたことは非難されるべきだろう。しかし、イスラエルパレスチナの関係はそのような、平和的な共存ではなく、日常的にイスラエル側はいわば”誘発”していたという状況だったのではないか。

テロが起きてそれを鎮圧する。それはわかる。おそらくそれだけであればほとんどの国は正当な防衛と認めたのではないだろうか。

ということで突然日本のことを思うのだが、もし日本でテロが発生したとしたら、日本はその国を攻撃すると。しかし、もし相手がそれなりの軍備をもっていて、日本に攻め込まれるとしたらどうだろう。おそらくは政治的な解決を求めて、日本国内で死者が出るようなことはしないのではないだろうか。結局今回のイスラエルは、パレスチナ自治政府は軍事的に比較にならないので攻め込んでもパレスチナ側の他の国がなにかするまでは大丈夫と踏んでいるのだろう。

21世紀になって、戦闘員以外の市民が殺されることでの政権への批判は戦争を継続することを許さないと思う。

日本ではあたかも戦争が始まったら戦闘員として参加して死ぬことを美化するような動きがあるが、それはもはやできないことで、世界的にも教育でそのようなことをやったとしても、全員にそのような思想を植え付けるのは無理だろう。だからウクライナやロシアから逃げ出す人もいるわけだ。しかしパレスチナガザ地区は逃げ出すこともできない状態。そういった状態に置かれている国に攻撃を続けている、しかも国として核をひけらかしている状態で長崎の慰霊に呼ぶことが市民の了解を偉るか考えれば、それは無理なことだとわかるだろう。長崎市の主催なので、護衛費用が増大すれば市の支出によることになるだろう。

特に樋川氏のコメントで驚くのは、外務省への言及がないことだ。小生はG7の大使がやっていることに対しては何かしら外務省が対応して収めるべきであったと思う。それがあからさまになって報道されたのは外務省というところの仕事がなにか抜けがあるようで、それに対して一言もない大臣も、ひとこともないということは、何も対応しないということは幹部が決めて大臣も了解していたと思われるが、それに対して新聞は特に何も書かないと。

ということで突然だが、結局平和の維持に軍備が必要とはいっても、今の世界では、自国民が死ぬと途端に政権は批判されるというのが通例で、批判を許さないとしたらそれは全体主義的な思想がいきわたっている国だろう。結局は平和は自国がある軍備をもって、もし攻め込んできたらこれで攻めれば一般国民に死傷者がでる、と思わせる手段なのだろう。それは同盟も同じで、例えば米国にどこかアジアの国が攻撃を加えれば、日本という極東の国から米軍と日本と韓国から攻め込んでいけば時間的にはすぐに対応できると。ということを考えると、どちらかといえば、日本の米軍基地や同盟は日本を守るというより米国を守っているのだと思われる。仮に日本が攻め込まれたとしても米国はすぐに出ていかず、政治的な解決を求めるだろう。なぜなら、日本のために米軍兵士が死ぬなどあってはならないことで、そのようなことがあれば、第2次世界大戦で敵であった日本のために、米国人が死んだとなり、すぐに大統領批判が起きるだろうからだ。

最後になるが、長崎や広島も、外国人から見ると、もし核保有国が核を使えばこうなる、ということをどう受け止めるか、ということで、核廃絶は大切と思いつつも一方的に手放すこともできない、ということを再確認する場になってしまっていないかを十分考えることも必要ではないだどうか。