たぶん9月30日朝日新聞朝刊橋爪大三郎氏の寄稿をよんで

橋爪氏が朝日新聞に安倍元首相の国葬について寄稿したものを読んだ。

大筋賛成ではあるのだが、最終段のところは違和感があった。

まず、”戦没者慰霊祭のように無宗教の式典であった”と書くが、まず、戦没者慰霊祭のようではなかったようだった。戦没者慰霊祭で、ビデオは流れないと思う。それに弛緩した音楽も流れないだろう。また、感傷的な弔辞もなく、もっと緊張感をもった弔辞が読まれているのではないか。次の段で橋爪氏はイギリス国教会の伝統云々と書かれるが、前に書いたように、橋爪氏ははっきり書かないが、宗教的な葬儀礼拝と個人の賛美(国歌)ははっきりと分けられていた。単に国教会の礼拝形式だけではなく、”国葬”としての式次第として、そうしたところもしっかりしていたことは注目点であったと思う。そして私が思ったのは逆に戦没者慰霊祭のようなしっかりした形式を踏襲すればもっとずっとよい式典になったのではないかということだ。時間もあのくらいだったらみんな集中できたと思う。弔辞も戦没者慰霊祭ののように国民全員が納得できるようなもの(例えば民主主義を守るというもとの意義はどこに行ったんだろう。菅さんの弔辞で”正しかった”といわれたのは、国民を分断した決定のようなことで、あまりそういう例にはならないようなものだったような気がした)ということで橋爪氏と結論としては近いところもあるのだが、無宗教だからいけないというわけでもないだろうというところは大きく違っている。

もちろんお別れの会であれば話は全然別でビデオもいいだろうし、弔辞もあのようなものでもよかったのだろう。お別れの会であればもともと宗教は関係ないわけだし故人の賛美におわっても問題はないだろう。

なんだか”国葬”にこだわってしまったために話はやっかいになり、しかもたまたまイギリスの国葬(橋爪さんも本当の国葬と書いているけど、それは、安倍さんの場合は宗教的な葬儀はもう終わっているので、”葬儀”という意味はどうだということだと解釈してます)。

ただ、過去の例だとこのあともしかすると、”県民葬”なども行われる可能性もあるのですね。日本ではなんとか葬というのをお別れの会と同じ意味で使うというのはこれまでしらなかったのですが、もしそうだとすると、死んだ直後の”国葬”(遺体がある場合)とある程度たって、やる”国葬”は分けて法律も作るということなんでしょうか。(作るなら)それは事前に決めておいて、式次第などはしっかり形式化されて、委託業者は某社以外でも受託できるようにしておくことも今後は重要かもしれませんね。