宗教と献金

宗教とお金の問題は難しいと思います。

たとえばバチカンカトリックの中心にいるひとたちはものすごい生活をしているという噂もあります。しかし、教皇の時計は日本で高校生でも買えそうな時計だったりもするそうです。きっとたくさんの人が献金で支えていると思うし、当然カトリックの中では貧しい国にいって働いている人もいて、そういう人たちを支えることにも献金は使われている。そのことが分かっていて皆さん献金されているのだと思います。

カトリック修道院に入るには全財産を寄進すると聞いたこともあります。本当かどうかはわかりませんが。それが問題にならないのはなぜだろうという気もします。もし世俗的なことをいったら、問題になりそうです。もし修道院から出て無一文になって行政のお世話になるようなことであれば、それは宗教団体が個人の財産を自分たちのものにして、国民の税金であとはその財産を寄進した人の面倒を見させるということになりかねないからです。おそらくはそんなことにしないような仕組みがカトリックにはあるんでしょう。結局宗教とお金はすごく難しい関係があって、なかなか世俗の論理ではわかりきれないところがある。ただ一つ言えるのは、その中でみなが納得するお金の使い方がされて、特定の個人が利益を得るようなことは許されないということだ小友割れます。それがおかしいという仕組みがなければその団体は宗教ではなく詐欺であるということかと思います。といっていくと、宗教のなかでのお金の位置づけに話は移行して、なかなか難しいなあと思います。

もちろん、霊感商法などといわれるような、関連する事業会社にモノをうってもうけさせるような仕組みは認められないのは当然です。おそらく旧統一協会(教会)は献金もですが、関係する事業会社にいろいろとやらせて、そのもうけを献金させているというところに問題があるので、献金だけの問題をいってもしょうがないのではないかと思ってます。