これから国語で重視されるのは論理国語?と言われる分野だそうです。
また、英語なども実用的な英語力が重視されるとか。
つらつらと考えるに、例えば相撲の世界では外国から来た人が日本語を話しています。
話しているどころではありません。おそらく相撲に関する限り、実際に相撲をするための日本語は語彙もそれを聞いて実行することも外国人力士の方が一般日本人よりも無限倍能力は上でしょう。親方のいうことを実行しようとしても普通の日本人はできません。
これは相撲の世界の日本語ですが、そもそもがことはを実用的につかうというのは、そういった側面が常に付き纏うのではないかと思います。
おそらく論理言語の究極は法律ではないかと思いますが、法律ですら法律家と一般人では読んだ受け取り方が違うので法学部というところで学ぶ意味があるのでしょう。
そう考えると本当の究極はコンピュータ言語くらいで、自然言語で”論理”だけで読解できるものがあるのでしょうか、、、
ということで今度はその論理を正しく読むための能力が必要という学者もいます。しかし、それこそ一流の大学をでないと読み取れない論理というのは、ようは論理構造を複雑にしているような文なのでしょうけど、作っている方も適当に書いたものを読む方が論理を組み立てないといけないというのもなんだかなぞです。
これからの日本は多様なひとたちがきて日本語を使って仕事をするときに、高度なAIですら誤読するような文章を作っていていいのだろうかという気もします。そうおもって文章を書いていても誤読の可能性は残ってしまう。作る側からするとそうなので、語彙や文法をチェックした日本語文章をつくることに学者がすすんでくれればいいですが、逆に難解な構造を読み取ることが必要と言って試験を開発するようなやりかたはどうかとおもいます。学問って一体なんのためにあるんだろうと思ってしまいます。
おそらくはこのふたつは実は一体で、”複雑な論理の文章をよみとることこそ学力のベース”というひとたちが教育の分野に増えているということなのでしょう。
学者はそれでいいのでしょうけど、一般社会人は大迷惑で、私は、文章はわかりやすく書く、それでもその道のひとでないとわからない表現などは出てしまうものだ、というものじゃないかと思います。本田勝一さんの日本語の本はそう思う人たちが書い続けているので望みはあると思いますが。